フワフワした彩りの花々が咲き乱れている、見渡すばかりの平原。
その中に、あたしは一人で立っていた。
あれ、これってもしかして。
・・・・・・臨死体験の番組とかでよく、一度死んで甦ってきた体験者が「気が付くと見渡すばかりの花畑の中に立っていました」みたいに喋っている、あの、死後の世界の花畑とかだったりして。
だってほら、そこに河が流れてる。
向こう岸が見えないほど、まるで海のように大きいけれど。
あれは
現世と死界の間にあるという 広大なアケローンの河のはず
そうだ。
この頃はまだ、このあたりはこんなに綺麗だったのだ。
地上に心邪なる人間どもが増えてしまったことにより、おびただしい数の亡者どもが溢れかえって見る影もなく荒れ果ててしまった、その後の風景とは全然違う。
ここは、
ここは昔の、黄泉比良坂だ。
「―――――――こんなところにおったのか、探したぞ」
ああそうそう、死後の世界から生還した人たちってだいたい、「河を渡ろうとしたら自分を呼ぶ家族の声が後ろからしたので、振り返ってみたら病院のベッドの上で意識が戻り、そこには大勢の家族たちがいて私を呼んでいました」とかなんとか言うんだよね。
あたしを呼ぶのは誰かな?
(・・・・・・・・・・・エエ!?)
振り返ってみたあたしはそこで、ただでなくびっくりした。
ニコニコと穏かな笑みを浮かべてそこに立っていたのは、なんとキャンサーのデスマスクだったのだ。
「――――――お兄様!」
そして、夢の中の自分が発した突拍子のない言葉にまたまた仰天。
なんでよりにもよって、あのデスマスクがあたしの「お兄様」なわけ。
「我が妹よ。そなたはいつも、花咲き乱れる場所におるな。プロセルピナ」
デスマスクはその逆立った銀髪の頭の上に、おかしな形状の兜を被っていた。勇壮な鷹の双翼のような飾りを両脇に備えた、不思議な金属質でできた大きな兜だ。それはペタソスと呼ばれる神器の一つで、戦神アテナが持っている正義の盾や海神ポセイドンが持っている三叉鉾と同様、オリンポス十二神の座につくものとしての、彼自身の大いなる力の証であった。
・・・・・・。
・・・・・・・・・・ぬ?
ま、まあとにかく、よくわからないけどあたしの脳みそが作り上げたのはそういう設定であるらしい。
そしてデスマスクは黄金聖衣でもあの伊達くさいイタリアンスーツ姿でもなくて、その兜の翼の細工と似たような紋様のレリーフを施した、峻烈な輝きの甲冑に全身を包んでいた。それは戦いに使うものというよりは、ちょっと格式のある場所に出向くための、装飾重視の礼服みたいな仕様、という感じだった。
花の中にあたしの姿を捜し求め、嬉しそうに近づいてくるデスマスク。この夢の中でのデスマスクからは、普段のような毒気の強さなど微塵も感じられない。
なんだか行儀がよく、育ちのいい貴公子みたいな印象を覚えた。
「このヘルメス、そなたの姿を探して地上をほうぼう駆けずり回ったぞ」
“ヘルメス・・・?”
ああやっぱり、顔が同じっていうだけで別人の設定なんだ。
それにしても、
あの強烈なあくばったさを全部抜いてしまうと、デスマスクってこんなふうになるのか。
あたしの記憶の限りでは、デスマスクとはいつも粗暴で愛想の欠片もなく、他者を前にするといつも威嚇するような眼差しを向けてくる、そういうのがなかば習性のようになってしまっているような男だった。
そして、そんな奴の立ち居振る舞いからは、こういう言い方もまたよくないんだろうけど、「まっとうな人生を送ってこなかったんだろうな」という荒んだ雰囲気がありありと伝わってくるのだ。
だがそれでいて、キャンサーのデスマスクの目には、睨まれたものを総じて居竦ませてしまうような、そんじょそこらの人間では太刀打ちできないほどの一種独特の圧倒感も宿っていた。
この男にはそれがない。
斜に構えたりすることもなく、ただただ真っ直ぐにあたしを見据える、まぶしいほどの清廉な眼差し。
イタリアンマフィア風のスーツよりも白いTシャツとジーパンが似合いそうな、充分普通の爽やか仕上げの人懐っこい兄ちゃんだ。
「これからそなたが向かう新たな住みかを、眺めておったのか、プロセルピナ」
プロセルピナ。
デスマスクの顔をしたヘルメスは、あたしのことをそう呼んだ。
「はい」
河の向こうを見つめたまま、プロセルピナのあたしは静かに頷いた。
すると、ヘルメスが来たのとはまた別の方角から「プロセルピナー!どこですー?」あたしたち二人の傍へと駆け寄ってくる誰かの気配がした。
いかにも身分の高そうなデザインのゆったりとしたドレスをまとい、炉火にも似た紅の宝石をちりばめた宝冠を頭に載せた、一人の女性が近づいてくる。
その人の顔は・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・!!
「おお!地上における全ての孤児と迷子の守護者にして、あらゆる都市の鎮護をにないしオリンポス十二神の乙女・ヘスティアよ。お久しぶりです」
デスマスク(ヘルメス)がにこやかに手を振って呼び寄せたその相手は、
美 穂 姉 ちゃん じゃん!!
「おや、我が甥子にして旅人の守護者・・・知恵高き伝令神ヘルメスよ。明日には人妻となる妹に、最後のいとまごいをしていたのですか」
やってきた美穂姉ちゃんとデスマスクはまるで親しい旧知の間柄みたいに、出会い頭に丁寧な会釈を交わした。あのキャンサーと、星の子学園の美穂姉ちゃんが。嘘みたいな光景だ。
あ・・・そうか夢か・・・もともと、嘘みたいなもんだよね。
「最後などとはまた、大げさですぞヘスティア殿」
「・・・・・・これなんじゃ、ヘスティア“殿”とは!ちゃんと伯母上と呼ばぬかヘルメス!」
突然、デスマスクの頭を小突くという(!)命知らずの真似をする美穂姉ちゃん。
ところが当のデスマスク(ヘルメス?)は、「痛!伯母上はあいかわらず遠慮ないのう」頭を押さえていかにも弱ったように苦笑いするだけだった。
・・・・・・”ヘスティア”? ”伯母上”?
ああ、そうか。
美穂姉ちゃんそっくりだけど、この女の人もやっぱり別の人なんだ。
どれにしても、どういう基準のキャスティングなんだろう。
なんで美穂姉ちゃんがデスマスクの伯母さんなんだ。
「よいかヘルメス。いかにオリンポス十二神の座についたとはいえ、ゼウスの姉であるこのヘスティアに比べれば、そなたなんぞまだまだヒヨッコなのじゃ。それを忘れるな」
「はいはい伯母上。せっかく気をきかせて“乙女”とお呼びしているのに、それをわざわざ年増じみた敬称をお望みになるとは・・・アテナといいアルテミスといい、やはり、処女の誓いをたてるような女神というのは、相当変わっておるのう。な、プロセルピナ」
「なにかいうたかヘルメスよ?」
「・・・・・・いいえ、伯母上。なあんにも」
そして美穂姉ちゃん、いや、ヘスティアは、あたしの方に向き直った。
「プロセルピナ」ヘスティアの声音はなんとも威厳に満ちており、そして上品だった。
「あなたの母デメテルが捜していましたよ。明日の婚礼の衣装を合わせねばならぬと」
「デメテルお母様が?」答えたその声は紛れもなくあたし自身のものだった。
「彼女に頼まれてあなたを呼びにきたのです」
「まだよろしいではありませんか伯母上」ヘルメスだ。
「わたしは妹プロセルピナと、まだこの場で語り合いたいことがあるのです」
「・・・・・ヘルメス、そなた・・・・・!」
「よろしいでしょう」
ヘルメスの眼光が強い光を帯びた。
するとヘスティアはしばし眉間に皺を寄せ、思案するような素振りを見せていた。が、やがて用心深い口調で言った。
「わかった。だが忘れてはなりませぬよヘルメス。そなたの妹は明日、ハーデスの元へと嫁ぐ身であるということを・・・彼女の外聞に触れるようなことは、間違ってもしないように、よいですね?」
その言葉の意味があたしには瞬時にわかった。
ヘスティアは、いかに兄妹の仲であるとはいえ、一応男と女であるあたしたちが二人きりになることによって、万が一にも間違いを犯してはならぬと念押しをしているのだ。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・。
てか、何いってんの?美穂姉ちゃん。
デスマスクと、あたしで?
ありえねー!
「ではプロセルピナ、私はデメテルと一緒に神殿で待っている。あまりぐずぐずせず、早く来るのですよ」
「はい」
そして美穂姉ちゃんの顔をしたヘスティアは踵を返すと、蝶のように飛翔し渡っていく花びらの乱舞の彼方へと、スっと姿を消してしまった。
どうやらこの花畑は相当強い気流にさらされているらしい。次から次へと風に乗った花びらが流れてきては、あたしとデスマスクの間を遮るように掠めていった。
ヘルメスはしみじみとした面持ちで川面に視線を投じながら、あたしに言った。
「このアケローン河の向こうは、冥界か・・・・・」
「ええ」
「覚悟は決まっておるのか、妹よ」
「はい」
と、デスマスクはあたしの髪の毛を「きゃあ!」後ろからくいっと悪戯するように引っ張った。
「ふん、お前さんのような粗忽者に、あのハーデスの嫁なんぞ本当に勤まるのかねえ」
「お、お兄様!これが、今より河向こうに嫁がんとする、健気な妹になさる仕打ちですか!」
「なあにが健気じゃ、自分でいうな」
「昔から、ヘルメスお兄様はいつもいつも私にばかり、特別な意地悪をなさる!ああもう痛いわ!妖精たちに結ってもらった髪がめちゃくちゃ!お兄様なんか大嫌いよ!離してくださいな!」
「なにもそんなに怒ることはあるまい!!」
「怒りますとも!なんといってもこのプロセルピナは、明日にはハーデス様の元へ嫁ぎ、人妻となる身なのですから。たとえ兄とはいえ、もう少し慎みをもって接していただかないと!」
「フン。お前みたいな泣き虫にゃ、あの男の嫁は無理だ!」
そう言うと、ヘルメスはあたしの(プロセルピナの)髪の毛から手を離した。
「この黄泉比良坂の八合目あたりで“怖い、怖い、行きたくない”とかなんとか、泣きだしてしまうのではないか?ええ?」
「・・・泣いているわけになどまいりませんわ。このプロセルピナ。夫となるハーデス様とともに、女王として冥界の繁栄に尽力していくとようやく覚悟を決めたばかりなのですから」
「・・・・・」
「ハーデス様は“死界のゼウス”と呼ばれるほどにその統治も名高く、力強き御方であるとか・・・ならば私はその隣で、せめて“死界のアテナ”と称されるぐらいにはなれるよう、尽力したいと思うております」
「己をアテナになぞらえるような、そんな卑屈な物言いはやめろ。妹よ」
するとひどく沈痛な面持ちになって、ヘルメスは、急にうつむいてしまった。
「ほんのちょっとイタズラをしたぐらいで大嫌いとはひどいではないか。オレは、オレは悲しいぞプロセルピナ」
「あ・・・お兄様、泣いておられるのですか?嘘、嘘です。泣かないで」
そしてあたしはついうかうかと傍によって、ヘルメスの顔を覗き込んでしまった。
子供の頃から何回もこの手にはひっかかってきたというのに。
「ほれ隙ありじゃ馬鹿者が!」
案の定、兄は私の腕を掴まえて、花咲く地面の上に強引に引き倒してきた。
「卑怯だわお兄様!」
昔から取っ組み合いでは兄には敵わなかった。
いや、すべてのことにおいて、私は誰にも、他のどんな神にも、何も敵うような才能を持っていなかった。
だから私は、神々の頂点ともいえる、オリンポス十二神のうちにも含まれなかったのだ。
大神ゼウスと豊穣の女神デメテル。大いなる神々を両親に持っていたにも関わらず。
「ははは!だからお前は進歩がないのだ!」
私はヘルメスにしっかりと体をつかまえられ、花畑の上にごろりと寝転がされた。
「お兄様・・・!」
「いくらあいつが他の神々や人間どもから誉めそやされておろうとも、お前はお前ではないか」
「!」
「この兄の前でまで、“死界のアテナ”などと、そのような卑屈なことは、言わないでおくれ。プロセルピナ」
「・・・・・・」
視界を埋め尽くす花、花、花。
私たちはその中で寝っころがって、互いにしばし向かい合いながら、見つめ合う。
こうしていると、まるで子供の頃に戻ったようだ。
ヘルメス兄様は頬杖つきながら、一度は離した私の髪の毛の一房を、(あれ、あたしの髪の毛って先月切ったばかりだからこんな長くないはず)名残りおしそうに再びその手にとった。
男の人と一緒に寝そべりながら話をするなんて、デメテル母様の前ではとてもできない無作法だ。けどここにいるのは、行儀の悪さにおいては右に出るもののいないヘルメス兄様に、その兄と生まれた時から親しい私だけだもの。もとより咎める者なんかいないのだから構いやしない。
私は黙って、兄のしたいようにさせてやることにした。
それにどうせ、こんなことができる機会も、もうこれで最後なのだ。
「なあプロセルピナ。あんな女のことは引き合いに出すなよ。アルテミスとともに処女の誓いを立てた純潔の女神だかなんだか知らんが、オレはアテナは嫌いだ」
「そんなふうに言わないでお兄様。アテナは私とは違います。あの子は母親がいないにも関わらず、地上の統治者としてあんなにしっかりとやっているではありませんか。それにひきかえ、私は・・・」
みんなが いう。
知恵と慈愛と、戦いの力に恵まれたゼウスの末娘アテナ。
みんなが くらべる。
同じゼウスの娘でありながら、二柱の輝きにはなんという差があるのだろうと。
春の女神プロセルピナ。
女神とは名ばかりの、大いなる母デメテルの陰にいつも隠れ、ただ、野に花を咲かせることぐらいしか能がない女。
それが、私。
「オレはアテナなんかより、お前の方がずっと好きだ」
昔から私を妹のアテナやアルテミス達と比べないのは、このヘルメス兄様ぐらいのものだった。
「なあ、お前。本当にハーデスのところへなんぞ嫁に行きたいのか」
デスマスクの顔をしたヘルメスは、俄かに真面目な顔をして私にそう訊ねてきた。
「お父様と、ポセイドン叔父上がお決めになったのだもの。しょうがないわ」
「くそ、ポセイドンめ!!・・・あいつは、そなたの母デメテルに恋慕の情を抱いておるのだ。いわば己の下心のために、一人娘のそなたを冥界へと厄介払いしたいだけなのだぞ!それをわざとらしく、お前にふさわしいだなんだと父上にこんな婚姻を進言などしおって!」
「いいのお兄様。そのことはもうわかっています」
「わかっていて、お前・・・」
「お母様は私がふがいないばっかりに、ずっと私に構いっぱなしだったもの。そんな母が叔父上と新たに幸せになってくれるようなことがあれば、このプロセルピナにとって、こんなに嬉しいことはありません」
それは私の本心だった。
母様は私のことにかかりっきりだったから、もうこれ以上母様のお心を煩わせることのないように、私は早く一人前になりたかった。
例えそれが、冥界の女王という思いもかけない役職を預かるようなことであっても。
「・・・・・お前の幸せは?」
「お兄様」
「アテナやヘスティア伯母上たちは、処女の誓いをたてたのをいいことに、多くのものを手にしてあれだけ好き勝手に生きているというのに、なんでお前一柱だけ、身一つであんな陰鬱なる冥界に嫁がねばならぬのだ!」
そしてヘルメス兄様は、私の肩を強く引き寄せた。
悲痛な眼差しが、間近に近寄ってくる。
「!・・・いけません。お兄様、おたわむれを」
今まで一度だってこんなことをしたことはなかったのに。(いやちょっと待って。「こんなこと」って、お前らなにをやっとんねん)
「やはりイヤだ。行かせたくない。なあ、妹よ、いまからでも遅くはない。ハーデスなどではなく、我が妃となれ」(へ、いや、ちょっと)
何を今更。
いつもいつも、ヘルメスお兄様はあちらこちらを自由に飛び交っていて、
私が本当に傍にいて欲しい肝心なときには、ちっともいてくれなかったくせに。
それでいて結婚間際となった私を前にして、ようやくこのような有り様とは。
あげくに我が都合を考えもせず、ただただこの場の衝動にまかせて、こうして私の対面を汚すようなことをなさる。
腹が立った。
やはりこの兄もまたオリンポスの男に過ぎぬ。
父であるゼウスやポセイドンたちと同じ。女に対してひどく勝手なものだ。
「お兄様あのアケローン河をごらんなさい!あの向こう岸には、明日には我が夫となるハーデス様が座しておられるのですよ!その眼前で、どうか、どうかこのような真似」
(このような真似ってどのような真似?・・・・・・まさかアアアアアア!)
「それがどうした・・・!ならば今からとっくりと見せつけてやろうではないか。お前の良人となるべき男は誰であるのか。それをこの場で」(見せつ・・・・ノー!!!)
「そんなことをすればただでは済みませぬ!ハーデス様のお怒りを買いたいのですか!」
「知るか。これであの男と戦争になるというのならば、望むところよ。オレは太陽神とも仲良しだ。あいつにも軍勢を借りて、一挙に冥界に攻め込んで・・・」
(ぎゃー寄ってきたあマジでマジでマジでやめてえええええデスマスクうううゥ!!)
唇が触れるか触れないかという距離まで(・・・・・・!!)兄が迫ってきた時、私は決定的な一言を放ってやった。
「これは大神ゼウスのご決定ですよ お兄様」
「!」
「この私ともども、お父様に反逆の意を示すこととなってもよろしいのですね?そういうお覚悟あってのことと思ってよろしいのですか!?ヘルメスお兄様」
「・・・それは」
「どうなのです!?」
とたんに、ピタリと止まる。(ホっ)
「・・・・・・ほら、できないじゃない!できもしないことを豪語して、どうして私を苦しめるの!」
つくづく、子供のようだ。
しかしヘルメス兄様は、それでも私の顔に手を伸ばそうとした。
「いや!」
私はそれに逆らって顔を背け、身をよじらせた。
「無理強いはイヤ!無理強いはイヤよお兄様!降りて、我が体より降りてください!」
(そうだ降りろデスマスクこのヤロー!!)
どうして苦しめるのだろう。この私の都合も考えずに。
私は知っている。
アベルお兄様と同じく、父ゼウスより寵愛高き息子の一人である兄・ヘルメス。
そのお父様のご不興を買ってまで私をさらうなんてこと、根っからの優等生であるこの兄にはもとよりできるわけがないのだ。
にもかかわらず、このようにガラにもないことをなさって、
「お兄様、あなたも分別のわからぬような年でもないでしょうに」
本当に馬鹿ね、お兄様。
「私は戦争は嫌い。何より嫌い。自分が非力で弱虫だから、他の誰かが争い、傷つく姿を見るのはイヤなの。ましてや私事などのために、アベル兄様にまでご迷惑などかけられませぬ」
「プロセルピナ」
「そうよお兄様のいう通り、私は弱虫で泣き虫、なんのとりえもない!だから、先のティタノマキアにおいても、私はなんの働きもできなかった。同じ姉妹であるアテナやアルテミスがあれほど奮戦したというのに、私はそれを、ただ震えてみていただけ」
「・・・・・」
「でもこんな私でも、あるいは冥界の妃としてならばお役にたてるかもしれない。戦勲をたてることは無理であった分、せめてゼウス父様の御心にかなうよう、このプロセルピナ、これからは夫ハーデスにつくすことによって世界の平和に貢献したいのです・・・わかって、お兄様」
「お前は、それを望むというのか」
「私もオリンポス神族のはしくれ。それを、お兄様やお母様に、いつまでも子供のように甘えているわけにはまいりません。もう決めたのです・・・ですから」
あたしは兄ヘルメスの腕をそっとさすって、なんとか笑ってみせた。
「私は幸せです。冥界に赴きし後も、優しいお兄様が私のことを想っていてくださる。それだけで私は満足なのです」
だが涙をこらえることだけは、どうしてもできなかった。
勝手な男だけど、
私はやはり、この兄がどうしても好きなのだ。
「お前は弱虫なんかじゃない・・・お前は、無欲で優しすぎるだけなのだ。この兄はよく知っておる」
「お兄様」
「それをいいことに、どいつもこいつもお前の優しさにつけこむ・・・!」
そう。
「そんな言い方はやめてお兄様」
いまおもえば、ほんとうにそのとおりだった。
「かつてティターンとの戦いのさなかにおいても、プロセルピナよ・・・オレの胸中にちらつくのは、そなたの顔ばかりであった」
「・・・・・」
「たとえ戦列には加わっておらずとも、そなたがオリンポスでオレの無事を祈ってくれていると思うだけで、この身には力が湧いたものだ」
「・・・・・」
「だが、それももうなくなるのだな」
声を殺して兄は泣いた。
(・・・・・・・)
(あのデスマスクが泣くなんて・・・・・)
「オリンポスの神殿に帰っても、もうお前はいない」
くずれおちるようにすがってきた兄の背中を、なだめるように私は抱きしめる。
「お兄様泣かないで」
「お前のおらぬ地上など、闇と同じじゃ」
「また、春には里帰りします。そういう婚姻の約束になっておりますから」
「だがお前はもう、他の男のものだ。それが耐えられぬ」
「聞き分けのないことおっしゃらないで」
「・・・・・」
「あなた様は私のたった一人の兄上ではありませぬか。それはずっと変わらない。男女の契りが切れることはあっても、血潮をわけし兄妹の絆だけは、誰にも断つことはできませぬ。それなのに、なにを悲しむようなことがあるというのです」
「・・・・・」
「喜ぶことこそあれど、悲しまねばならぬようなことなど何一つもないのですよ。お兄様」
「・・・・・そう、だろうか」
「そうよ」
そしてゆっくりと身を起こした兄は、泣き笑いの顔で、わざと元気よく私に言った。
「そうじゃな・・・これ以上お前を困らせては、兄の面目丸つぶれじゃな」(ううっ、そうだよデスマスク、泣いちゃだめ)
「お兄様。私は、ずっと祈っています。冥界の深部エリシオンの玉座においても、お兄様の無事とご繁栄を、ずっとずっと」
「・・・・・よし」
「?」
「これをそなたにやる」
するとあろうことか兄はその頭より神兜を脱ぎおろすと、双翼の飾りの一方をためらいもなく折り取ってしまったのだ。
「お兄様!!」
そしてヘルメス兄様は、私にそれを差し出してきた。
「受け取れ妹よ」
「そんな、これは」
「これはオレの心だ。持っていてほしい」
「しかしこれはオリンポス十二神の一柱たるあなた様の、神衣の一部ではありませぬか。それを」
「いいのだ。一つなくなったところで、オレは困らぬ」
「そんな・・・・!」
「なあプロセルピナ。お前の心も、おいていって欲しい」
「・・・・・」
「誰にも知られうちに、伯母上もこぬうちに、今ここで」
「・・・・・・」
「駄目か」
私は首を横に振る。
こんな辛そうな目をした兄を前にして、どうしてイヤと言えよう。
兄は、再び私に顔を近づけてきた。
「お兄様」
「・・・・・」
「どうかこのことは秘密に」
すると
こんなときだというのに、クスクスと笑う気配がした。
「・・・・・・よかろう。未来永劫の秘密じゃ」
ああそうだ。幼少の頃、
私を誘って悪戯の共犯者に仕立て上げる時、
お兄様はいつも、こんなふうに笑っていたわね。
そして熱に浮かされたようなボンヤリとした意識の中で、私は聞いた。
ひどく満足げな、兄の声を。