秦皇島偉信自然食品有限公司
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■営業案内
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中国河北省の広大な栗産地の中でも燕山山脈の麓、万里の長城の付近に自生する栗は、「千果の王」(果物の王様)と呼ばれ、果肉の色は黄金色で、果肉がよくしまっており、小粒で香りが良く、甘味が強く、もちっとした独特な風味をもった河北品種で、「燕山栗子」と呼ばれる最高品質の栗との高い評価を受けています。
ところで皆さんは甘栗で使われる栗が「中国国内でしか生産できない」ということをご存知でしょうか?
甘栗の原料となる栗は、中国国内でも栄養豊富で味が良いことで知られています。 また、よく締まった身には上品な甘さがあり、害虫の混入も少ないのが特徴です。 さらに、焼き栗やむき栗に向いている一番の理由として、渋皮(外側の硬いカラと実の間にある薄い皮)がきれいに剥けることが挙げられます。 また、この栗は別名「天津甘栗」とも呼ばれます。 日本での「天津甘栗」という通り名は、中国各地から天津の地へ集められ出荷されたことから名づけられました。 つまり、日本では天津で集荷された栗であれば、「燕山栗子」でなくても全て天津甘栗として流通されてしまっているのです。
当社では、「燕山栗子」の本物のうま味を皆様に味わっていただくため、「燕山栗子」の中でも特に評価の高い“秦皇島市青龍満族自治県”産と“唐山市遷西県”産の無農薬有機栽培の栗に限定して仕入れております。
そのため、美味しくて安心できる天津甘栗を皆様にお届けできるのです。
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世界で有名な栗は、主に北半球の温帯域に広く分布し、種子が渋抜をしなくても食用になります。
その種類は日本栗、アメリカ栗、ヨーロッパ栗、そして中国栗の4種が世界で栽培されています。
栗はブナ科に属する果樹で、アジア・ヨーロッパ・北アメリカ・アフリカの温帯地方に分布しています。
栗は風土に対し適応性の広い果樹であり、年平均気温10〜14℃・最低気温マイナス20℃を下らない地域であれば栽培可能な果樹です。
【日本栗系】(日本、韓国、北朝鮮産など)
縄文時代より重要な植物資源となっており、自生するしばぐり(柴栗)から選抜した大果の丹波栗(主に日本の原産地は京都の丹波地方)が栽培の中心となっています。 それは その他にも、茨城、熊本、愛媛などで栽培され、日本で栽培される栗はその粒が大きいことで世界でも有名です。 全体的に大型サイズ鬼皮は厚く、果肉の方につく、薄茶色が多い渋皮が厚く水分率が高い加工用に適しています。
【ヨーロッパ栗系】(フランス、スペイン、オーストラリアなど) 南ヨーロッパから小アジアの原産で、主として地中海沿岸諸国で栽培され、それぞれの産地の国名をつけて呼ばれることが多く、マロングラッセなどの菓子原料や焼き栗に利用されます。 ヨーロッパの市内では、秋になるとよく焼き栗を売る屋台が見られます。 全体的に大型サイズ鬼皮は薄いく濃いめの茶色渋皮は薄いが果肉に深く入り込んでいます。 カッティングの後スチームボイルで渋皮を剥くと加工しやすいのが特徴です。
【アメリカ栗系】
アメリカの東部地域原産。 1800年代の終わり頃、東洋から侵食した胴枯病の蔓延で大きな被害を受けました。 現在でもその被害から回復していないため、果実の利用というよりもタンニン製造の原料や建材として重要視されています。
【中国栗系】(板栗・茅栗・錐栗)
板栗(別名 毛栗): 華北・華中に分布し、樹高15〜20m、毬に2〜3粒結実し、果皮は茶褐色、果肉は淡 黄色を帯び、球形で直径2〜3cm。渋皮が剥け易く、甘味が強いのが特徴です。
茅栗(別名 野栗子): 華中・華南に分布し、樹高6〜12m、通常毬に3粒結実し、褐色の扁球形です。
錐栗(別名 尖栗・珍珠栗): 華中・華南に分布し、樹高20〜30mに達し、毬には1粒しか結実しません。卵形で先が尖がった形が特徴です。
甘栗の原料に最も適しているのは、板栗の種類で河北省が主産地です。 板栗でも甘栗に使用する栗は北方系に属し、果実はいずれも座が小さく、渋皮は薄くて離れやすく、かつ果肉の甘味が強いため焼き栗に適しています。 河北省の産地は主に、遷西県・興隆県・遵化県・青龍県・寛城県の5県で、日本への輸出数量の80〜90%を占めています。 地理的には北緯40度付近に位置する万里の長城のある南北40kmのベルト地帯を中心に東は秦皇島市から西方へ400kmの河北省の省内の範囲にあります。
河北省の板栗は、果肉がよくしまり、水分が少なく、含水炭素が多く、果皮・渋皮とも剥けやすく、タンニンの含有量が多いことから、加熱するとこれらが糖分に変化し、自然の甘味が出るので、甘栗に最適なのです。 また、良質のデンプン、可溶性糖分、脂肪、繊維質、各種ビタミン、カロチン等、人間の体に必要な要素を多く含んでいるので、古くから「血液系統の活性化にも効き、止血効能も有する」(図経本草)とされ、各種の皮膚病や腫れもの・むくみ・吹き出物などの治療にも効くと言われてます。
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中国産甘栗が日本に輸入されはじめてから、すでに90年近くになると言われている。「中国伝来物語」によると、中国山東省出身の李金章氏が明治時代、1910年代のはじめ、中国産栗を輸入して、東京の浅草で販売をしたのが最初と言われている。当時は、天津、大連、山東等から輸入されたという。
大正時代初期には、毛利、千疋屋などが東京で甘栗の販売を開始し、1914年(大正3年)に、甘栗専業となる北澤重蔵氏が甘栗の販売を始めた。現在の甘栗太郎本舗の元祖である。1915年、北澤洋行の北澤氏が天津港で、日本向け輸出の天津栗を確認したと言う。ほぼ同時期に、甘栗太郎の栗取り扱い店となり、神戸でも佐野回漕店が、天津甘栗の販売を開始した。
1918年(大正7年)になると、東京の池之端で世界万博が開かれた時、甘栗太郎が実演販売を行い好評を博した。これを機会に鈴一と楽天軒も栗販売を始めた。1921年からほぼ15年間は、年間約300トンから400トンの天津栗が輸入された。
昭和に入ると、大阪の西川商店も天津甘栗の販売をはじめ、1935年(昭和10年)頃には、中国栗と朝鮮栗の2種類が輸入販売された。
中国栗を、「天津甘栗」として商品化したのは、甘栗太郎本舗の北澤重蔵、千代蔵氏、鈴木一平氏、小林照元、礒貝博氏、白井三吉氏、柴源一郎氏、藤田清吉氏等第一代の甘栗専業者であると言われている。当時はまだ冷蔵船もなく、産地での買い上げ、出荷地天津港への集荷と積み出しには、大変な苦労が伴なった。
柴源一郎(現甘栗太郎会長)は、1943年には、すでに甘栗太郎本舗の仕入れ担当として、中国河北省の栗産地である遷西、遵化、承徳にまで奥深くはいり、ロバに乗って、燕山山脈から吹き下ろす12月に寒風の中を、白酒で身体を暖めながら仕入れをしたと言う。
1940年代は、不幸な戦争により、日中の甘栗貿易もままならず、数量は減り、変わって平壌栗が輸入販売されていた。
戦後、中国甘栗が輸入再開されたのは、1949年新中国が成立した年のことで、86トン入荷した。
1952(昭和27)年につづいて1953には、湯浅貿易が117トンを輸入した。
1954年には、さらに湯浅貿易、東京丸一商事、三昌貿易等7社が、天津甘栗を輸入しこれから5年間、年間1,400トンから1,500トンが輸入され販売される様になった。
「甘栗読本 中田慶雄著より」
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| 甘栗の歴史(2) 貿易中断そして友好物資としての甘栗 |
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新中国との甘栗貿易は、民間の努力によって、1949(昭和24)年再開された。この時期からは、中国との貿易促進を願う有識者によって日中貿易促進会議、日中貿易促進会、1954年には、日本国際貿易促進協会が設立された。甘栗輸入商社も、甘栗専業者も、続々とこれらの促進団体に加入し、日中貿易促進の重要な一翼を担うようになった。
かくして、ようやく1,500トンに拡大した中国甘栗の輸入が、1958年 「長崎国旗事件」による日中貿易中断により、全面ストップという危機に遭遇した。
1959年の年初、当時の総評事務局長岩井章氏が、中国を訪問するというので、柴源一郎氏、は香港まで出かけ、香港経由で甘栗を買い付けるとともに、連日連夜岩井氏に請願し、民間の中小甘栗専業者救済の嘆願を、中国の周恩来総理にすることを委託した。
岩井章氏は、優れた労働運動家であり、中小甘栗専業界の死活の苦境を伝え、甘栗貿易再開を要請してくれた。
周恩来総理は、この面でもその偉大さを発揮された。日中貿易は、時の日本側の政府、一部政治家の対新中国敵視政策により、中断に至っていたが、日本の中小企業者の生活の苦しさを察し、「甘栗を配慮物資」として輸出供給する、という政策を打ち出した。これが歴史上有名な日中貿易三原則の一つ、友好「配慮物資」貿易である。
かくして、1959年5月、中華全国総工会を経由し、甘栗専業界に中国から招待状が届き、専業界を代表して、柴源一郎氏と礒貝博氏が、香港経由中国の広州に入った。同時期、漆の業者も訪中した。甘栗の輸入商談は、広州において、中華全国総工会陳宇氏等の代表と行われた。そして輸入トン当たり72,000円から104,000円で、100トンの天津甘栗の再開が実現した。
こうして天津甘栗は、日中民間友好貿易の象徴商品(シンボル)と成った。
「甘栗読本 中田慶雄著より」
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日本では、古く縄文時代から食糧として栽培されされており、遺跡からも炭化したものが見つかっており、「古事記」や「日本書紀」そして「万葉集」にも、栗の話が出ています。 その後、奈良・平安時代に丹波地方(京都府)の栗が商人によって京都を中心に広められたと言われております。
時は戦国時代。栗は鬼皮(外の皮)と渋皮を剥き、乾燥させて保存食としたものを「かち栗」と呼び、兵糧として食べていました。 この「かち栗」が、勝ち栗=戦に勝つということで、戦国時代に武将が秋場の戦には、縁起かつぎとして栗を食べて戦ったということですが、じつは栄養補給の意味もあったのですね。 戦国時代の兵糧や、江戸時代の参勤交代などを通じて、その後全国的に広まったとされています。 現在、正月に食べるおせち料理の“栗きんとん”は、その名残りだといえます。
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